会社概要

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社名
株式会社はぎの家石材店
所在地
〒270-2254 千葉県松戸市河原塚353
TEL:047-386-0101
創業

昭和12年9月

代表者
代表取締役 萩元 美明
事業内容

霊園運営事業

お墓販売事業

納骨・法要事業

建設業許可
千葉県知事許可 (般ー29)第52392号
提携
日本私立学校振興共済事業団
所属団体
一般社団法人 全国優良石材店の会

全優石へ


一般社団法人 日本石材産業協会
全国石製品協同組合
東京都石材業政治連盟
首都圏石材協同組合
八柱霊園石材同業組合
京葉石材工業協同組合
公式SNS

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経営理念

供養を通して心の健康づくりに貢献し、人生を豊かにする


基本方針

1.(顧客)歴史を受け継ぎ、信頼され頼りにされる存在となる

2.(商品)供養体験を通して、心豊かな時を過ごすことで安心と安らぎを提供する

3.(社員)やりがいを持てる仕事を通して成長出来る職場をつくる

4.(会社)世の中の変化に合わせ、変革をしながら前進し続ける企業を目指す

5.(地域・社会)つながりを大切にし、地域活動に参加して課題に取り組むことで社会に貢献する

6.(文化)お墓参り文化を未来につなぐ


行動理念

1.誰からも信頼されるよう誠実に対応する

2.向上心を持って学び、自らを高める

3.失敗を恐れずに何事にも果敢に挑戦する

4.自ら高い目標を掲げ、達成するまでやり続ける

5.自分で考え自分からすぐに行動する

6.チームワークを大切にし、思いやりを持って協力する

7.プロフェッショナルであることを自覚し、期待を超える商品・サービスを提供する

8.全てのことへ感謝をし、地域や社会へ奉仕する

9.やりがいも持って働き、自己実現を達成する


ビジョン

社員とお客様を幸せにする会社



はぎの家の歴史

昭和12年9月
初代 萩元丑五郎が千葉県松戸市河原塚353番地に石材加工販売を主なる業務として 「はぎの家石材店」を創業。
昭和35年
萩元住明が2代目代表取締役に就任。
昭和36年
経営規模の拡大と需要の開発につとめ、更に経営の合理化に資するため協業化をはかり京葉石材工業協同組合を設立し加盟する。
昭和45年1月
有限会社はぎの家石材店として法人設立。
昭和47年
民間霊園の開発協力、運営に参画する。
昭和51年
首都圏石材協同組合を設立し加盟する。 首都圏を中心として各地の新規霊園開発事業に参画する。
平成4年
石のギャラリー「STONE ART UPON」を新設。
平成7年
アルテ・ヌォーバに参画し立体彫刻を本格的にスタートする。
平成9年
株式会社はぎの家石材店に組織変更する。
平成19年1月
本店店舗をリニューアルし営業を変革する。
平成26年2月
3代目 萩元美明が代表取締役に就任。
令和元年12月
店内にカフェをオープン

1937  新天地で創業

はぎの家石材店は、昭和12年9月松戸市河原塚で創業しました。

その前身は東京市本所区駒形2丁目、いまの墨田区で石材店を営んでいました。石材店といっても店は構えておらず、のちに初代社長となる萩元丑五郎が一人で、家の前の道路端に石を並べて仕事をしていました。墓石もやっていましたが、ビルの壁の石を加工して張ったり、玄関周りの床の石をつくるのが主な仕事で、大谷石で住宅の塀もつくっていました。 忙しいときは仲間の職人が応援にきていました。

そんなおり、東京市が昭和10年八柱村に広大な八柱霊園を開園させました。この状況に思い切って新天地で事業を展開しようと、昭和12年5月、本所から八柱へ一家三人(丑五郎・妻のチヨ・息子の住明)で移住してきたわけです。丑五郎40歳、二代目社長となる住明5歳のときでした。

すでに11軒ほどの石材店が出店していましたが、そのほとんどが西門に近い県道沿いでした。店の前の道路が当時から県道で交通の要所だったこと、当時は今の西門が正門だったからです。その一角(現在の店の道を挟んだ斜め向かい)にはぎの家も店を建て、12年9月に創業となりました。

創業当時の店名は、萩元の名字からとった漢字の「萩の家」でした。しかし、お客様のなかには「おぎのや(荻の家)」と呼ぶ方々がいました。これでは商売にならないと、三年ほど経ってカタカナの「ハギノ家」に変え、さらに終戦後に現在の「はぎの家」にしました。

創業間もなく戦争へ

創業から4年後、昭和16年12月に太平洋戦争が始まりました。戦時中も仕事はわずかながらでもありましたが、肝心の石が届かない状況が続きました。

当時の墓石は、茨城県の真壁や笠間が産地で、適当な大きさに割った荒石が列車で松戸駅まで送られ、そこからトラックで運ぶわけですが、軍が貨車を優先的に使うため、産地から石が送られないのです。お客様から「○日までにつくって欲しい」とご要望をいただいても、石が届かないと仕事ができない、職人も待っているが、どうにもならないという状態が続きました。店を開き、「さあ、これからだ」というときでした。

昭和20年の終戦近くになると、米軍の空襲に襲われました。松戸は松飛台に飛行場があり、戦闘機をもっていました。戦闘機は普段、霊園のなかの壕に隠して、外にはベニヤ板で造った偽物を置いていました。それを狙って米軍の戦闘機が機銃掃射をし、流れ弾が店の周りにも飛んできました。霊園の中でも、法事で僧侶がお経をあげていると、弾が飛んできて、みんな木の陰に隠れていました。

2月には米軍のB29爆撃機が投下した爆弾が、河原塚にも3発、店から400メートルほど離れた所に落ちました。夜中の寝ている時で、爆風でガラスが割れ、壁にもひびが入りました。3月9日の東京大空襲のときは、東京の下町を中心に約10万人の方々がお亡くなりになりました。河原塚の高台にあるはぎの家からは、西の空が真っ赤になったのが見えました。昭和12年まで住んでいた本所一帯(現・墨田区)は特にひどく、知り合いは皆焼け出されました。

戦後、家族をつなぐ

太平洋戦争は、昭和20年8月15日敗戦を迎えました。

それからの数年間は、これまでのなかで最も苦しかった時期でした。戦争に負けて、国民の多くは希望も何も持てない、何をする気にもならない様子でした。 東京市立の八柱霊園にお墓をもてる東京市民の多くは大空襲でご家族を亡くされましたが、食べていくだけで精一杯です。お墓をつくる方はほとんどなく、お墓参りに来られる方もほとんどいません。世の中の全てが止まってしまった様な状態でした。

それでも店には、職人を2人ほど抱えていましたので、仕事を見つけなくてはなりません。河原塚をはじめ周辺の農家の方々の家の塀や門柱などをつくりました。豆腐屋さんが豆を潰すのに使う臼の目立ても定期的に行ないました。いつ売れるかわからない墓石の加工もしていました。

終戦から3年ほど経った昭和23年頃になると、ぽつりぽつりとお客様がお墓参りに来られるようになりました。店に立ち寄った方からは、「弟が空襲で焼け出されたが、まだ連絡が取れていない」「娘のいるところが分からない」という話を多く聞きました。

店ではその都度、住所などの連絡先を聞いてノートに書いておきました。後でそのご家族の方々が来られると、「お兄さんは〇〇に住んでいるよ」などとお伺いした情報をお伝えしました。

「おかげで見つかりました」とのお手紙が届き、次に家族揃ってお墓参りに来られるようになりました。

はぎの家では、戦後数年間で離れ離れになった約100組の家族を繋げるお手伝いをしてきました。

墓石工事の注文が入りだしたのは、昭和27年頃からです。暮らしも気持ちも少しは落ち着きはじめ、先祖の供養をしようという方々が増えてきたようでした。

東京では、空襲で墓地が被害にあった墓石のつくり替えの注文がくるようになりました。

終戦から7年ほど経って、ようやく世の中が動き出したように感じました。

昭和20年の空襲でご家族を亡くされた多くの方々が、十三回忌にあたる昭和32年ごろ新たにお墓をつくろうと動きはじめました。三回忌や七回忌のときは、まだその様な余裕がなかったのです。

和型8寸という定番規格の建墓がピークに達しました。石が不足し、問屋から入ってこないという事態まで起きました。はぎの家も、注文を受けても納期に間に合あわせることが出来るよう必死に働きました。

当時の墓石の加工は全て手作業でした。石を切るのも磨くのも、すべて職人の手に頼っていた時代です。夜通しの作業にも限度がありました。

昭和30年代に入ると、はぎの家のお客様も増え、創業当初の店は法事の会食やお墓参りのさいの休憩所としては手狭になってきました。そこで、道を挟んだ向かいの石材置き場にしていた場所に法事用の部屋をつくりました。現在も使っている建物です。

1960 二代目社長に住明が就任

昭和35年、二代目社長に住明が就任しました。初代・丑五郎が健康上の事情で仕事を続けられなくなり、28歳の若さで店を引き継ぐことになったわけです。

十三回忌の建墓ブームは終わっていましたが、高度成長の時代に向かっている勢いのある時代でした。その頃の八柱霊園は、毎年2000区画ほどの墓所を売り出していましたが、昭和30年代後半には供給よりも申し込みが上回るようになりました。

お墓づくりのブームを迎えるなかで、各地に大きな霊園が造られはじめました。その先駆けとなったのが、市川市が昭和37年に造った市川市霊園です。千葉県内の自治体が初めて造った公営の霊園です。

市川市霊園ができるにあたり、八柱の石材店8店が市川への進出の検討を重ね、京葉石材工業協同組合をつくり、市川市霊園の正門近くに共同の店舗をオープンさせました。

ここを支店としてお墓をつくりたいというお客様にお応えするとともに、建墓後のサポートに備えたのです。これまでにない新しい出店方法で、千葉県に登録した石材業協同組合の第1号になりました。はぎの家にとっては、八柱霊園以外でも事業を拡大させていく出発点でした。

この協同組合方式は、その後40年代以降にはぎの家が首都圏規模で事業を展開していくうえで貴重な経験となりました。

昭和39年頃には埼玉県の鷲宮町(現在の久喜市)で寺院が境内に造る霊園事業に、八柱の石材店数店と協同で参画しました。はぎの家としては公営霊園以外で行う最初の事業です。

昭和40年頃、はぎの家で初めて車を購入しました。ダットサンの四輪トラックでした。墓地の現場に加工した石を運んだり、お墓をつくりたいというお客様を霊園に

ご案内するのに使いました。お客様を乗せる時は、幌をつけ荷台には鉄製の椅子を乗せて走りました。その後、幌付きの小型バスを買ってお参りに来たお客様の送りを本格的に始めました。

当時松戸市内には松戸駅近くの料理店一軒しかありませんでした。法事の時、会食に使う場所が必要となったので、はぎの家が呼び掛け昭和40年頃から同業者2店と共同で、新京成の稔台駅近くに料理店を開きました。石材店やお墓参りのお客様から好評で、経営も安定して10年ほど続いたあと、他社に引き継ぎました。

この頃になると、墓石の加工は急速に機械化が進みました。さらに韓国から墓石が輸入されるようになりました。

昭和42年ごろ、八柱の同業4社と共同で事業所をつくり、各石材店の墓石の字彫りを始めました。

1970 会社設立

昭和45年、これまでの個人経営から有限会社とし会社を設立しました。

昭和46年には、東京都が八王子市に八王子霊園を開園しました。この時、京葉石材工業協同組合の設立の経験は活かされ、霊園の近くに京葉石材工業協同組合の2号店となる共同店舗を建て、営業を開始しました。

昭和48年埼玉県春日部市にかすかべ霊園が開園しました。その際、はぎの家は初めて寺院が行う霊園の開発協力を行いました。その後、各地にも民間霊園が造られていきました。

昭和51年、厚木霊園の開園にあたっては、はぎの家など八柱霊園前で営業している8社と、東京の小平霊園前で営業している10社など合わせて20社で新たに通商産業省(現経済産業省)の認可を得て首都圏石材協同組合を設立し、霊園の開発協力を行いました。 この様に八王子や厚木など東京西部にも進出し、事業を拡大していきました。

昭和50年代は、船橋市や八王子市、埼玉県杉戸町などで、寺院が行う民間霊園の開発協力と販売を行ってきました。この頃開発される霊園の傾向として墓所の区画が狭くなってきましたので、これまで据えていた灯篭は区画の中に入らなくなってきました。そこではぎの家では、同業3社と共同で小型の灯篭を商品開発する事業を始めました。

昭和63年には松戸市が白井市に市営白井聖地公園を開園しました。この開園にあたって、八柱の石材店全社と白井聖地公園石材業協同組合をつくり、正門近くに共同店舗を設けました。

1987 デザイン墓石

墓石の形は従来から、和型と洋型の2種類が中心でした。昭和60年ごろからは、これにとらわれずに、個人々が好きにデザインした墓石があってもよいのではないかという考えが出てきました。デザイン墓石の出現です。

この傾向をさらに強める役割を果たしたのが、全国優良石材店の会(全優石)です。同会は、お客様へのサービス向上や石材業者の育成と業界の発展をめざして昭和57年に設立、62年からデザイン墓石を展開しました。同年2月、東京・新宿のホテルのロビーで、新しいデザインの墓石6基を並べて発表会を開いたところ、業界関係者の他、一般のお客様約500名が来場されるほどの盛況ぶりとなりました。各テレビ局や新聞で取り上げられ、業界内でも新しいデザイン墓石に一層関心を高めることとなりました。

はぎの家は発足当初から同会に入会し、全優石のデザイン墓石の推進に共感して、従来からある墓石の形にとらわれない自由な発想でお客様が希望する新しいデザインのお墓づくりに力を注いでいきました。

墓石の他にも石そのものの価値を高めていくために、石のアートを事業として始めました。国内外から作品を集め、石のインテリアやエクステリアを提案していきました。

平成元年には、お客様に心地よくご利用いただく為に、これまでの店舗の道を挟んだ向い側に現在の店舗をつくり、本店を移しました。

1991 墓地の簡素化が始まる

以前ご法事では20人~30人はよくお集りになられていましたが、平成3年頃から10人に満たないようになってきました。卒塔婆の本数も、1回の法事でご親戚全員分として20~30本立てられてたものですが、代表者の方だけが立てるという場合がでてきました。

東京都の墓地行政も変化し始めました。平成3年から八柱と小平、多摩霊園に小さな壁墓地をつくり始めました。さらに平成10年には小平と多摩霊園に合葬施設を造りました。

八柱霊園では壁墓地の新規募集が平成14年で終了した後、返還された墓所の区画を小さく分けて毎年200~300区画を再募集するだけとなりました。

こうした簡素化や、価格競争が進むなかで、はぎの家ではデザイン墓石や立体彫刻などに力を入れるなど、お墓の付加価値づくりに取り組んできました。また、首都圏での民間霊園の事業にも参画を増やしていきました。

ニューデザイン大賞受賞

平成7年、スキー愛好家のご家族からご依頼を受け、オリジナルデザインの墓石をつくりました石碑は山の斜面をモチーフにし2本のシュプールを描き、香炉はロッジを形どりお線香を焚くと煙突から煙が出るという工夫をしたデザインです。

テレビや新聞、雑誌で何度も取り上るほど話題になり、お客様からは大変喜ばれました。このお墓は、全優石の第一回お墓デザインコンテストで、ニューデザイン大賞に選ばれました。

この他にも平成3年から開かれたジャパンストーンフェアーにデザイン墓石を出展し、一般来場者の人気投票で1位に選ばれたこともありました。

平成16年ごろには、松戸市内の寺院でデザイン墓石中心の墓地づくりも行いました。

はぎの家がオリジナルデザインの墓石をお客様にご提案するのは、お客様にとってより良い価値あるお墓づくりを第一に考えているからです。

こうした取り組みのなか、企業の成長と信頼性の向上のため平成9年に有限会社から株式会社へと、組織変更をしました。

モニュメント製作

各方面の方々からのご注文にお応えして、さまざまな記念碑づくりにもご協力してきました。

平成13年には北海道小樽市高島町に伝わる盆踊りを紹介し保存する、「高島越後盆踊り記念碑」を制作しました。高島越後盆踊りが無形文化財に指定されたのを記念して建てられた、高さ2.4メートルの記念碑をはぎの家が設計・施工しました。

平成10年と13年には、松戸市立第六中学校野球部が全国中学校軟式野球大会で準優勝など輝かしい成績を記念したモニュメントや、平成24年度には松戸国際高校野球部が高校野球選手権千葉大会においてベスト4の成績をおさめたことの記念碑を、各々の保護者の方々からご依頼を受け制作しました。 また近年、ペットを供養する需要が増えたことにより、ペットの遺骨を収納できるペットのモニュメントの販売も始めました。

2007 供養への価値観が変わる

平成19年には、これまでの訪問型の営業スタイルから店舗型の営業へと改革を進めました。これに合わせて店舗のリニューアルを行ないました。店内はお墓参りの際の休憩スペースを残しながら、デザイン墓石の展示スペースを新たにつくりました。

平成23年、未曾有の被害を出した東日本の大震災。全優石は復興の為のプロジェクトチームをつくりました。二度とこの被害を繰り返してはならない、石屋として何が出来るか…、真剣に検討を重ねて出来た「津波記憶石プロジェクト」。津波の事実と教訓を後世に残すため、被災地に石碑を建てる事に取り組みました。はぎの家もこのプロジェクトにスタートからずっと中心メンバーとして関わり、これまで31基の石碑建立に協力をしてきました。

この震災から人々の価値観が大きく変わり始めたと思います。これまでに増して葬送の自由や多様化によって、新しいニーズが生まれてきています。 また、インターネットの普及によってお墓を建てようとする人達の購買行動がますます変わってきていました。

2014 3代目社長に美明が就任

平成26年、三代目社長に美明が就任し、住明は会長になりました。

お墓の市場は減少の一途をたどっています。そこで改めてお墓の大切さを啓蒙していく事と、経営を一新することが必要となりました。

社内でIT化を進め、業務の合理化をして生産性を向上させる取り組みを始めました。

業界団体や組合では、霊園検索のポータルサイトを本格的に運営していました。まここの頃から改葬の需要や墓所の返還が増えてきたことから、お墓の引っ越しをサポートする動きが始まりました。

お墓の大切さを訴求するために、ホームページ等で出来る限り情報の発信に努めています。

供養のあり方はさまざまで、墓石を建ててお墓参りをする一方で、いつも故人と一緒にという考え方で手元供養が増えてきました。

はぎの家では、平成29年より遺骨の入るジュエリーや自宅に置けるポットなどの販売を始めました。

(社史 「80年の歩み」 より)